現代では、お灸というと肩こりや冷えなど、体の不調を感じた時に使うものという印象があります。
しかし江戸時代、お灸はもっと日常的な存在でした。
病気になってから治すものではなく、日々の健康を保つための「養生」の一つとして、人々の生活に取り入れられていました。
松尾芭蕉は『奥の細道』の旅立ちにあたり、「三里に灸すゆるより」と記しています。
江戸時代の旅は、現代のように車や電車で移動するものではありません。多くの人は自分の足で何日も、何週間も歩き続けました。
その身体を支える知恵の一つがお灸だったのです。
目次
・【1】『奥の細道』に見る旅立ちのお灸
・コラム|記事に登場する「江戸の名著」
・【2】『養生訓』が説いた養生
・【3】『東海道中膝栗毛』に見る旅と身体のケア
・【4】どこで艾を手に入れていたのか?
・【5】まとめ
【1】『奥の細道』に見る旅立ちのお灸
江戸時代のお灸を語るうえで、まず外せないのが松尾芭蕉の『奥の細道』です。旅立ちの場面で、芭蕉は次のように記しています。「もも引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すゆるより…」現代語にすると、「股引の破れを繕い、笠の緒を付け替え、足三里にお灸を据えてから旅へ出た」という意味になります。
旅支度の中に、ごく自然に「三里に灸すゆる」という一節が入っていることに驚かされます。芭蕉にとって、お灸は特別な行為ではありませんでした。旅へ出る前に草鞋を用意すること、衣服を整えることと同じように、お灸もまた旅支度の一つだったのです。
ここでいう「三里」とは、足の膝下にある経穴「足三里(あしさんり)」のことです。
東洋医学では古くから、
- 足腰を丈夫にする
- 胃腸の働きを整える
- 疲労を回復させる
- 病気を予防する
など、多くの効能がある重要な経穴として知られていました。
長い旅を続ける旅人にとって、まさに欠かせない場所だったのでしょう。
コラム|記事に登場する「江戸の名著」
この記事でご紹介する書籍や図録は、いずれも江戸時代に書かれた「当時の超ベストセラー」や「大百科事典」です。当時の人々にとって非常に身近で、有名だったものばかりです。
1)和漢三才図会(わかんさんさいずえ)
著者の寺島良安(てらじまりょうあん)は大坂の医師であり、中国の『三才図会』をベースにしつつも自らの足で調査し、105巻・81冊に及ぶ日本初の図入り大百科事典を完成させ、正徳2年(1712年)に刊行しました。日本初の本格的な「イラスト入り大百科事典」です。自然科学から生活道具、医療、妖怪に至るまで、あらゆる知識が網羅されており、当時のお灸の知識も図入りで分かりやすく紹介されています。明治時代に至るまで長く重宝された非常に有名な一冊です。
▼【動画】和漢三才図会
2)貝原益軒|養生訓(ようじょうくん)
正徳2年(1712年)に刊行された、江戸時代の「健康・生活ノウハウ本」の大ベストセラーです。著者の貝原益軒(かいばら えきけん)は、儒学者であり薬用植物を研究する本草学者でもありました。幼少期は生まれつき体が弱かったものの、自ら学んだ知識と養生を実践したことで、平均寿命が約40歳だった時代に84歳(数え年85歳)まで健やかに生き抜きました。
彼が83歳の時に執筆した本書は、「病気になってから治すのではなく、日頃から予防する」という自らの実践的健康法を優しく説いたもので、空前の健康ブームを巻き起こしました。
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▼【動画】貝原益軒|養生訓
3)東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)
享和2年(1802年)から約20年にわたり刊行された、十返舎一九による大ヒット滑稽本(コメディ小説)です。弥次さん・喜多さんの名コンビが東海道を旅するドタバタ劇で、当時の庶民の旅の様子やリアルな暮らしぶりが生き生きと描かれています。
▼【動画】東海道中膝栗毛の朗読
4)東海道名所図会(とうかいどうめいしょずえ)
寛政9年(1797年)に刊行された、東海道のビジュアルガイドブック(旅行案内書)です。
各地の名所や宿場町の様子が精細な絵入りで紹介されており、歌川広重の浮世絵『東海道五拾三次』(超ベストセラーの風景画)や旅行ガイドブック『道中記(どうちゅうき)』ブームの先駆けとなりました。
▼【動画】江戸時代の観光ガイドブック
どの作品も、当時の人々が何に注目し、どのように暮らしていたかを今に伝える貴重な資料であり、お灸がどれほど生活に溶け込んでいたかを示す裏付けとなっています。
【2】『養生訓』が説いた養生
貝原益軒の『養生訓』には、病気になってから治療するのではなく、日頃から身体を整えることの大切さが説かれています。江戸時代のお灸も、こうした養生思想の中で広く利用されていました。
当時、お灸を担っていたのは一つの職種だけではありません。家庭では、家族同士でお灸を据えることがありました。専門的な施術は、灸師や鍼師が行いました。また、漢方医の中にも鍼や灸を用いる者がいました。さらに、寺社では信仰と結びついた灸が行われることもあり、人々は健康祈願や身体の手入れのためにお灸を利用しました。
『和漢三才図会』には、もぐさや灸法、経穴に関する知識が紹介されています。
お灸は特別な場所だけで行われるものではなく、家庭、専門職、寺社など、さまざまな場面で人々の暮らしに関わっていたのです。
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【3】『東海道中膝栗毛』に見る旅と身体のケア
江戸時代は、まさに「歩く時代」でした。
東海道、中山道、甲州街道、奥州街道など、日本中に五街道が整備され、多くの人々が徒歩で旅をしていました。

その旅の様子を生き生きと伝えてくれるのが『東海道中膝栗毛』です。弥次さん喜多さんは、道中で足を痛めたり、疲れ果てたり、ときには宿で休みながら旅を続けます。現代のように電車で数時間というわけにはいきません。一日に30〜40km歩くことも珍しくなく、足腰への負担は想像以上だったでしょう。
また、『東海道名所図会』には、街道を歩く旅人や峠越えの様子、宿場町の賑わいなどが細かく描かれています。その風景を見れば、お灸がなぜこれほど普及したのかが自然と理解できます。毎日何十キロも歩く生活では、「疲れてから治す」のでは遅いのです。だからこそ、旅立つ前に足三里へお灸を据え、疲労をためないよう身体を整えることが当たり前になっていました。
現代のスポーツ選手が試合前にコンディションを整えるように、江戸時代の旅人は、お灸で身体を整えてから歩き始めていたのです。
▼【動画】日本の歴史を刻んだ五街道:東海道
【4】どこで艾を手に入れていたのか?
現代のお灸は、台座の付いた製品が主流ですが、江戸時代にはまだありませんでした。
当時は、ヨモギの葉の裏に生える綿毛だけを何度も精製して作った「艾(もぐさ)」を、米粒ほどの大きさにひねり、直接皮膚の上に据える「点灸」が一般的でした。
では、その艾はどこから手に入れていたのでしょうか?
答えは、「自分で作る人」と「買う人」の両方がいました。
春から初夏になると、野山にはヨモギが一面に生えます。農村では、そのヨモギを摘み取り、乾燥させたあと、何度も砕いてはふるいにかけ、葉の裏側にある柔らかな綿毛だけを集めて艾を作っていました。
しかし、この作業は想像以上に手間がかかります。砕いてはふるいにかける作業を何度も重ね、硬い葉や茎を少しずつ取り除いていくことで、ようやくお灸に適した柔らかな艾ができあがります。
精製を重ねるほど繊維は細かくなり、燃え方も穏やかになります。そのため艾には品質の違いがあり、現在でも一般向けのものから、施術用や点灸用の高品質なものまで、いくつかの等級に分けられています。
江戸時代も同様で、町の薬種店では精製済みの艾も販売されており、自家製のものだけでなく、購入して利用する人も多くいました。なかでも近江国(現在の滋賀県)の伊吹山周辺で作られた「伊吹もぐさ」は品質の高さで知られ、江戸や京、大坂にも広く流通していました。
とはいえ、最高級の艾は特別な品質だったというだけで、お灸そのものがぜいたく品だったわけではありません。一度のお灸で使う艾は米粒ほどの小さな塊を数個据える程度なので、一袋あれば何百回、何千回と使うことができます。そのため、庶民でも日々の養生として気軽に用いることができました。
旅人にとっても、艾は欠かせない携行品の一つでした。
江戸時代の旅は、一日歩いては宿場町で休み、翌朝また歩き出すことの繰り返しです。東海道や中山道を旅する人々は、何十日、時には一か月以上に及ぶ道中になることも珍しくありませんでした。
旅人の中には、出発前に艾を用意して携える人もいましたが、長旅では途中で使い切ることもあります。そんなとき頼りになったのが、街道沿いの宿場町でした。
宿場町には薬種店があり、旅に必要な常備薬とともに艾も販売されていました。草鞋や足袋を買い替えるように、必要になれば旅の途中でも補充できる仕組みが整っていたのです。
また、宿場町には鍼や灸を生業とする人々もおり、旅の疲れを癒やすために施術を受ける旅人もいました。宿屋の紹介で灸師を訪ねたり、地域によっては宿で灸を据えてもらえたりしたと伝えられる例もあります。
こうして見ると、お灸は特別な医療ではなく、人々の暮らしと旅を支える生活の知恵だったことが分かります。
自宅で作ることもでき、必要に応じて町や旅先で買い足すこともできる。そんな環境が整っていたからこそ、お灸は江戸時代の人々の健康を支える、ごく身近な養生法として広く根付いていたのでしょう。
<4-1>なぜヨモギがお灸の原料になったのか?
では、なぜ数ある植物の中から、ヨモギがお灸の原料として選ばれたのでしょうか?
その理由は、ヨモギが古くから日本人の暮らしと深く関わってきた植物だったからです。ヨモギは日本各地に自生し、春には若葉を摘んで草餅などに利用される身近な植物でした。一方で、食用だけではなく、古くから薬草としても知られていました。
戦国時代には、野戦の場でヨモギが傷の手当てに利用されたという話も伝わっています。身近に手に入る植物でありながら、身体を整える力を持つものとして、人々に認識されていたのです。
そのためヨモギは、「食べる植物」であると同時に、「身体を守る植物」でもありました。
そして、ヨモギの葉の裏側にある細かな綿毛は、火をつけるとゆっくり燃え、適度な熱を生み出します。この性質が、お灸の材料として非常に適していました。
つまり、ヨモギは単に身近だったから使われたのではありません。日本中どこにでも生え、薬草として親しまれ、さらにお灸に適した燃焼性を持っていた。こうした条件が重なり、ヨモギは何百年もの間、日本のお灸文化を支える植物になったのです。
【5】まとめ
文学作品を見ると、お灸は旅立ちの準備として描かれています。
医学書を見ると、お灸は病気を防ぐための養生として説かれています。
そして庶民文化を見ると、お灸は毎日歩く人々の生活を支える知恵として根付いていました。
つまり江戸時代のお灸は、「痛いところを治すもの」ではなく、「元気に暮らし続けるための習慣」だったのです。
現代では移動の多くを車や電車に頼るようになり、歩く距離は大きく減りました。一方で、長時間のデスクワークやスマートフォンの使用によって、肩こりや冷え、運動不足といった新たな不調が増えています。時代は変わっても、「身体を整えながら毎日を元気に過ごす」という養生の考え方は、今も変わらない価値を持っています。
松尾芭蕉が旅立ちの前に足三里へお灸を据えたように、江戸の人々は未来の健康のために、今日のお灸を据えていました。
お灸は、病気を治すためだけのものではありません。
それは、日本人が何百年もの間、大切に受け継いできた「健康に生きるための生活文化」そのものだったのです。
