今の私たちにとって、結核は「昔の病気」というイメージが強いかもしれません。 しかし、かつての日本では状況はまったく異なっていました。 若い人も働き盛りの人も命を落とす可能性のある、恐ろしい病気だったのです。
当時、熱海・小田原・伊豆といった温泉地や海沿いの地域には、数多くの結核療養所がつくられていました。 なぜ、これらの地域に集中したのでしょうか? 温泉の効能が期待されていたのか、それとも別の理由があったのか?
この疑問を持ったきっかけは、私自身の学生時代の記憶です。 鍼灸の専門学校に通っていた頃、複数の先生から 「昔、熱海(あるいは小田原や伊豆だったかもしれません)に結核の療養所があり、そこでお灸も行われていた。」 という話を聞いたことがありました。
どの地域のどの施設だったのかまでは覚えていません。 けれど、2~3人の先生から同じような話を聞いたことは、今でもハッキリ記憶に残っています。
そこで、この話の真相を改めて調べてみることにしました。
本当に熱海・小田原・伊豆には結核療養所があったのか? なぜ温泉地に療養所が集まったのか? そして――結核患者にお灸が行われていたという話は、史実としてどこまで確認できるのか?
この特集では、当時の結核をめぐる社会状況から療養所の歴史、自然療法、温泉地での療養生活までを順番にたどり、最後に「お灸」の史実についても検証していきます。
・【1】なぜ結核は恐れられたのか?
・【2】温泉地が療養地になった理由
・【3】どんな療養施設があったのか?
・【4】治療薬が登場するまで
・【5】世界でも深刻だった結核
・【6】お灸は使われていたのか?
・【7】まとめ
【1】なぜ結核は恐れられたのか?
結核は、明治から昭和前期にかけて日本社会を大きく揺るがした「国民病」でした。 特に明治後期〜昭和前期には死亡者が非常に多く、長いあいだ日本の死亡原因の第1位を占めていました。
当時はまだ有効な薬がなく、「不治の病」として恐れられていた時代です。 発病すると長い療養が必要になり、重症化すれば命を落とすことも珍しくありませんでした。
そのため、治療といえば
- 安静にする
- 栄養をしっかり取る
- 身体を休める
- 療養に適した環境で過ごす
こうした生活そのものが、結核と向き合うための大切な方法でした。
結核は社会階層を問わず広がりましたが、特に都市部の労働者や若い女性への影響は深刻でした。 工場での長時間労働、栄養不足、過密な寄宿舎など、当時の生活環境が結核の蔓延と深く関わっていたためです。
製糸工場で働く若い女性たちの結核は社会問題となり、「女工哀史」と呼ばれる記録にも、病気に苦しむ姿が残されています。
一方で、経済的に余裕のある人々は、仕事を離れて静養したり、気候のよい土地や温泉地へ移って療養することができました。 つまり、結核は誰にでも起こり得る病気でありながら、どこで療養できるかには経済力による差があったのです。
そして、当時の療養地として選ばれた場所の中に、今では観光地として知られる地名が登場します。
熱海。小田原。伊豆。
なぜ、これらの地域が療養地になったのでしょうか? その背景を見ていきます。
【2】温泉地が療養地になった理由
現在の熱海や伊豆といえば「温泉」「観光」というイメージが強いですが、かつては結核患者が長期滞在する療養地でもありました。
当時の療養で重視されていたのは、薬ではなく「環境」でした。 身体を休め、規則正しい生活を送り、栄養を取りながらゆっくり過ごすことが大切だったためです。
そのため、療養地として求められた条件は
- 温暖な気候
- 日当たりの良さ
- 新鮮な空気
- 静かな環境
といった、身体を休めるのに向いた自然環境でした。
熱海・小田原・伊豆は、こうした条件を備えていたことに加え、もともと湯治や保養の文化があり、長期滞在者を受け入れる宿泊施設や交通の基盤が整っていました。
つまり、これらの地域が療養地になったのは
- 自然環境が療養に向いていた
- 温泉地としての基盤がすでにあった
- 結核患者の療養需要が急増した
こうした要素が重なった結果だったのです。
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【3】どんな療養施設があったのか?
熱海・小田原・伊豆周辺には、さまざまな形の療養施設がありました。
- 結核患者を受け入れる病院
- 長期滞在型のサナトリウム
- 民間の療養施設
- 温泉旅館を利用した療養
など、施設の種類は幅広く、設備や費用にも大きな差がありました。
個室や整った設備を備えた施設を利用できる人がいる一方、費用を抑えた施設では大部屋での療養が中心になることもありました。
ここで大切なのは、当時の療養所は「病院」というより、患者が長期間生活しながら身体を休める場所だったという点です。
<3-1>療養所での生活
療養所での生活は、現在の病院とはかなり違っていました。
患者は施設で暮らし、決められた時間に食事をし、安静を保ちながら一日を過ごします。 施設によっては、屋外やテラスで横になって過ごす「大気療法」が行われることもありました。
食事はとても重要で、結核で体力を消耗した患者にとって栄養は回復の大切な支えでした。
こうした生活を何週間、何か月、ときにはさらに長く続ける。 当時の療養所は、生活そのものを整えながらゆっくり回復を目指す場所だったのです。
<3-2>サナトリウムとは?
サナトリウム(sanatorium)という言葉は、19世紀後半のヨーロッパで生まれました。 語源はラテン語 sanare(治す)に由来し、「療養のための場所」を意味します。
サナトリウムが広がった背景には、当時の結核が深刻な社会問題だったことがあります。 まだ有効な薬がなく、治療といえば「環境を整えて長く静養すること」が中心だったため、自然環境の良い場所に長期滞在する施設が求められました。
1)サナトリウムの始まり
サナトリウムの原型は、ドイツの内科医ヘルマン・ブレマーが1850年代に提唱した「大気療法」にあります。 森林地帯の静かな環境で結核患者を療養させる施設を作り、これがヨーロッパで注目されました。
2)世界への広がり
19世紀後半〜20世紀前半にかけて、サナトリウムはヨーロッパ各地へ広がり、やがてアメリカにも伝わります。
- スイスの高原地帯(ダボスなど)
- ドイツの森林地帯
- アメリカの山岳地帯(コロラド州など)
こうした自然環境の豊かな地域に、多くのサナトリウムが建てられました。
3)日本への影響
日本でも、明治後期〜昭和前期にかけて結核が深刻化すると、ヨーロッパのサナトリウム文化が紹介されました。 温暖で静かな環境を持つ 熱海・小田原・伊豆 は、こうした世界的な流れの中で療養地として選ばれていったのです。
<3-3>小田原の「自然療養社」
小田原の療養の歴史を調べると、「自然療養社」という名前が出てきます。
自然療養社は1920年代に療養生活に関する出版活動を行い、1923年には『療養生活』を創刊しました。 当時は、「患者自身が生活をどう整えるか?」が重要だったため、知識を共有する活動にも大きな意味がありました。
自然療養社は、そうした 「療養生活そのものに目を向けた活動」 の一例といえます。
【4】治療薬が登場するまで
ここで、結核治療の歴史を少し整理しておきます。
結核に対する有効な薬が登場したのは 1940年代後半〜1950年代 のことです。
- 1944年:ストレプトマイシンが発見
- 1952年:INH(イソニアジド)が登場
- 1950年代後半:複数の薬を組み合わせる「化学療法」が確立
これによって、結核は「治る病気」へと大きく変わりました。
つまり、熱海・小田原・伊豆が結核療養地として栄えた時期は、まだ薬がない時代の話です。 だからこそ、環境を整える療養が重視され、温泉地が選ばれたのです。
【5】世界でも深刻だった結核
結核が深刻だったのは、日本だけではありません。 19〜20世紀前半の世界では、結核は「ホワイト・プラーグ(白い疫病)」と呼ばれ、欧米でも大きな社会問題でした。
特に都市化が進んだ国では、過密な住宅や労働環境が感染を広げ、 イギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどで多くの人が命を落としました。
どの国でも共通していたのは、 「若い世代が命を落とす病気として恐れられていた」 という点です。
また、結核の蔓延は社会構造にも影響し、労働者階級や女性労働者の健康問題として深刻化しました。 これは日本の状況ともよく似ています。
そして、1940年代後半〜1950年代に治療薬が登場すると、世界的に結核の状況は大きく改善していきました。 日本で薬が普及していく流れは、世界の動きとほぼ同じタイミングです。
コラム|結核が描かれた映画と文学作品
結核は世界中で深刻な病として恐れられ、多くの文学作品や映画の中で重要なテーマとして扱われてきました。 特に19〜20世紀前半は、薬がなかった時代であり、若い命が失われる象徴として描かれることが多く、サナトリウムや療養生活は芸術作品の中でも大きな存在感を持っています。
日本でも『風立ちぬ』『野菊の墓』など、結核が物語の核となる作品が数多く生まれました。 これらの作品は、当時の社会状況や療養文化を知る手がかりとして、今も読み継がれています。
【6】お灸は使われていたのか?
最後に、今回のテーマである「お灸」について整理します。
当時、お灸は家庭でも行われるほど身近な療法でした。 結核に限らず、体調管理や養生の一つとして広く使われていたため、結核を患った人が療養生活の中でお灸を受けたり、自分で行ったりしていた可能性は十分にあります。
ただし――
熱海・小田原・伊豆の療養施設で「お灸が行われていた」と明確に示す記録は、現時点では確認できません。
これは、
- 記録が残っていない
- 資料が散逸している
- 個人的な養生は記録に残らない
といった理由が考えられます。
つまり、
時代背景的に「お灸が使われていた可能性はある」。 しかし、特定の施設で行われていたかどうかは「わからなかった」。
これが、現時点で言えるもっとも正確な結論です。
【7】まとめ
結核が「不治の病」だった時代、熱海・小田原・伊豆といった温泉地は、ただの観光地ではなく、長い療養生活を支える大切な場所でした。 温暖な気候や静かな環境、そして湯治文化や宿泊の基盤がそろっていたことが、これらの地域を療養地として選ばせた理由でした。
当時の療養は、薬ではなく「生活そのもの」を整えることが中心でした。 安静、栄養、休養、そして環境。 患者は長い時間をかけて、ゆっくりと回復を目指していました。
その中で、自然療養社のように「療養生活そのもの」に目を向けた活動が生まれました。 こうした“生活を整える療養”の中には、患者自身が取り入れていた身近な養生法もあったはずです。
今回の記事では、当時の社会状況、療養地の歴史、生活の様子をたどりながら、 「お灸は使われていた可能性はあるが、施設での実施は確認できなかった」 というところまで整理することができました。
結核療養の歴史を振り返ることは、過去の医療を知るだけでなく、 「人が病と向き合うとき、何を大切にしてきたのか?」 を考える手がかりにもなります。
